本著は聖化を求めるキリスト者への指針書である。聖潔を求める論理面の「聖化探究編」と、試練をとおして聖化に導かれた一キリスト者の「証詞編」とで構成されている。
「わたしは聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない」(レビ十一45)とあるように、キリスト者は、いつまでも新生の状態にとどまっておらず、聖なる神との交わりを深めて持続して生きていくために、自らが聖化されなければならない。
人の魂には、物質や人が与える何かでは満たされることができない空洞がある。その空洞は、聖なる神の霊によって満たされたときにのみ、心から満足を覚え平安がくる。
本著は、魂に豊かなやすらぎと神にも似たきよさを与える聖化に関し、聖とは何か、いかに聖に徹することができるか、世が言う聖と神が人に求める聖とどこが違うか、聖化とは何か、なぜ聖化されねばならないのか、聖に徹したキリスト者の理想的な姿は何か、聖化に至る実例はどのようなものかを探求した。
探求の題材としては、イエス・キリストが公生涯に入る直前に受けた荒野での試みや信仰の父アブラハムが「愛児イサクを献げよ」と迫られた試練、それに著者が「会社をとるのか信仰をとるのか」の二者択一を強要された患難などを取り上げた。
聖に徹するためには、世に貢献しつつ俗から分離した生活が求められる。したがって、そこには必然的に世の悪や汚れとの闘いがあり、聖であろうとしなければ受けることのない誤解や迫害がある。また「世俗的幸いを得よ」との権勢や栄華、賞賛への誘惑がある。これらの試練や患難、誘惑に打ち勝たなければ、罪深い人間が聖であり続けることはできない。
人間存在の到達すべき究極の姿として、求めるべきは聖であり、達すべきかたちは御子キリストに似ることである。この聖化は、イエス・キリストに全生涯を明けわたし、服従していく者に神から授与され、神が支配する御国へと受け入れられる。
キリスト者の選択とは、より多くの中から最も有益なものを選んでいくことではなく、一つ選んだもの以外は一切を捨てるという選択である。そのただ一つのことが聖にして愛なる神に従うことである。