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神声人語  --御言葉は異文化を越えて--

並製 320頁/B6 著者:ユージン・ナイダ 
訳者:繁尾久・郡司利男 改訂増補者:浜島敏  
定価(本体1,500円+税)
ISBN978-4-903748-13-9 C1080 Y1500E



目次
著者序文、訳者序文
第一章 所かわれば品かわる 
第二章 きみょうな発音、きてれつな文法、おまけにきまぐれな語句
第三章 とげといばら 
第四章 ギリシア、ヘブライの宝 
第五章 聖霊降臨の昔から
第六章 聖なる書に捕えられて
第七章 全世界に出て行って
第八章 良きおとずれを伝える者
第九章 神は心に語りたもう
第十章 神は道を備えたもう
第十一章 主かく語りたもう
第十二章 御言葉が人々に語る
注、あとがき、参考書目録、神のことば、引用外国語索引、総索引、言語索引、聖句索引 

著者序文

世界の人里離れた地域で聖書翻訳を行っている宣教師たちと一緒に仕事をすることになって、何百という言語に聖書を翻訳するという素晴らしい側面を学ぶまたとない機会に恵まれました。世界の七〇カ国を越える国々を訪れ、一五〇語以上の言語についてのさまざまな問題点を教えられました。その間、私たち夫婦はこれらの感動的な仕事の技術的な面や、人の興味をそそるような事柄について、詳細なメモを取りました。
宣教師たちは、未知の言語の文字を作り、文法書や辞書を書き、それらの言語という道具を使って神の言葉のメッセージを伝えるのです。私たちは、この本を準備するにあたって、これらの宣教師の戦略の扉を開くことで、私たちが受けたわくわくするような霊的な恵みを他の人たちにもお分かちしたいという願いを持ちました。本書に上げられているたくさんの資料を提供してくださった多くの宣教師の皆さんに心から感謝いたします。これらのかたがたは、一緒に仕事をしておられる同労者をのぞいてはほとんど知られることはないでしょう。また、それらの言語で神の言葉を備え、有効な伝道活動の基礎を作ったことにより、その土地に住む人々に素晴らしい宝を与えられたことになります。その人たちは、彼らの尊い仕事を決して忘れることはないでしょう。
本書は説教やレッスンのための教材として役立つ資料を豊富に備えていますが、その目的で牧師や日曜学校教師だけのために書かれたものではありません。クリスチャン生活のこれまで知らなかった領域を知りたいと思っておられる一般クリスチャンへの入門書ともなっています。読者の便宜に資するために三種類の索引をつけました。@聖句索引、本書に引用されている聖書箇所を聖書の順に並べました、A言語索引、これらのほとんど知られていない言語の地理上の説明も加えました、B総索引、題目と聖書の表現のリストを上げました。
ユージン・ナイダ

改訂増補者序文

ある日、あるクリスチャンと一緒にヨハネ伝六章を読んでいたときのことです。突然彼女が四八節でイエスが自らを「命のパン」と言っていることに言及して、「どうしてパンなんですか」と聞いてきました。
そんなことはごくごく当たり前のことで、質問されたこともなければ、考えてもみなかったことでした。その場では、一応出エジプト記一六章の記事を引き合いに出し、天から下ってきたマナが、イエスを指し示すものであり、本当のマナ、すなわちパンは、イエス・キリストであること、荒野でのマナを食べたものはいずれは死んでしまったけれども、本当のマナであるイエスを食べる者は死ぬことがないということだと説明しました。また、別に「パン」でなくても、「食べ物」と考えたら良いのではないかとも伝えました。実際に、主の祈りでは同じ言葉が「糧」とあるではないかとも。ところが、家に帰ってから、このような素朴な質問が、ひょっとして、本人の考えている以上に、「翻訳文学理解」、「異文化理解」ということにおいては、大変重要な指摘ではないかと思い、いろいろ調べてみました。
大きく言えば「聖書理解」にもかかわってくる問題だろうということに気づいたのです。そこで、まず中国語を調べてみますと、「糧食」、「糧」と翻訳されているものもありますが、多くの翻訳で「餅」とあるのに気づきました。ますます興味が湧き、古い日本語訳を調べてみますと、ギュツラフ訳(一八三七)では「命の餅」と翻訳していることが分かりました。ベッテルハイム(一八五五〜七三)、ウィリアムズ(一八五〇)などでは、「餅」か「菓子」と翻訳されており、「パン」はありません。ゴーブルは日本文化を尊重した宣教師でしたが、彼の翻訳で「主の祈り」を見てみますと(ヨハネ伝がないので)、「われらの日々の飯(めし)」となっていました。最近独特の翻訳で話題になっているケセン語では、「今日の飯(まんま)」とあり驚きました。     
そもそも「パン」という外来語は古く、ポルトガル語から来ていますが、基本的には礼典用のパンを意味しており、一般の食事を表してはいません。例えばキリシタン時代のバレト写本では、最後の晩餐の場面での「パン」は「パン」と翻訳されていますが、五千人の給食の場面では同じ語が「餅」と翻訳されていることからもそのことが分かります。
私の興味はさらに広がって、韓国語を見てみました。韓国語最初の翻訳であるロス訳は「トック」(餅)を使っていました。最近の翻訳でも「パン」となっているものもありますが、「トック」としているものがいくつか見つかりました。私の言語能力ではそれを越えることはできず、その他の言語までは調査できませんでしたが、モンゴル語とか、さらに太平洋諸島の言語などには面白い翻訳があるかも知れません。芋を主食としているところでは、「命の芋」でしょうか。
最近出版された『真理の源を求めて』によると、パプア・ニューギニアのある部族では聖餐式にサツマイモとレモン汁が使われると書かれていました。もっとも「パン」が「サツマイモ」、「血」が「レモン汁」と翻訳されているということではありません。日本語の翻訳で「パン」と翻訳されるのが定着したのは、ヘボン訳(一八七二〜七三)以後ですが、それからもニコライ訳(一九〇一、正教会訳)では「餅」の漢字に「パン」のルビが振られていますし、さらに面白いのは、ラゲ訳(一九一〇、カトリック訳)では、「麪(麺の異字)」に「パン」のルビが振られています。讃岐うどんで売り出している香川県では「命のうどん」というのが、意外と受け入れられやすいのかなとふと感じたりもしました。
日本では「パン」食の普及もあって、「命のパン」と言われても、一向に違和感を感じませんが、「パン」を常食としない国では、やはり違和感を覚えるのかも知れません。なんでもないことですが、聖書が西洋文化と言わないまでも、「パン」食文化を背景にしていることが分かります。「パン」であるかどうかが、聖書全体の理解にまで影響を与えることはまずないでしょうが、聖書の中には、異文化を背景としているために、誤解を招くような部分も多いのではないかと言うことを、今一度理解できたように思います。本書では、そのような異文化の中で福音宣教に携わっている聖書翻訳者たちが、どのような苦労をしているかを実例を挙げて分かりやすく伝えています。
本書の翻訳は、かなり前に終わっていましたが、自信が持てず、長年手元に暖めており、出版にはいたりませんでしたが、これを機会にやはり日の目を見させてやりたいという気持ちになりました。その思いを与えてくれた彼女に感謝します。

浜島敏