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それは教室から始まった

--キリスト者学生会(KGK)発足とその歴史--

並製 64頁/B6 著者:三森春生(みつもり はるお)  
定価(本体600円+税)
ISBN978-4-903748-15-3 C0016 Y600



目次
プロローグ ・・・・・・・・・・・・・・・・・5
草創期(一九四七年〜一九五一年)・・・・・・10
形成期(一九五二年〜一九六〇年)・・・・・・36
拡大期(一九六一年〜一九七二年)・・・・・・50
発展期(一九七三年〜一九八七年)・・・・・・57
エピローグ ・・・・・・・・・・・・・・・・61

プロローグより

 第二次世界大戦が終わったとき、日本人が味わった感慨を一口に言い表わすことは到底不可能であろう。それぞれの年齢、立場、戦時中の意識などの違いが、ひとりびとりの思いを微妙に分けている。しかし大まかに見て、終戦時にティーンエイジャーであった若者たちは、ある程度共通した気持があったのではなかろうか。いわゆる昭和一桁と言われる世代で、西暦で言えば一九二〇年代半ばから三〇年代半ばにかけて生まれた人々である。彼らの内の年長者は昭和とともに生まれ大恐慌の中に育ったが、大正リベラリズムの残照を受けながら、古きよき時代の思い出をも心に留めている。しかし又、その退廃を悪徳に位置づけ、勃興する軍国主義を美徳として掲げられれば、ほとんど疑いなく天皇の大義に従う純真さをもった青年たちであった。お国のために役立つようにと育てられ、少し覇気のある子どもたちは陸士(陸軍士官学校)、海兵(海軍兵学校)に志願した。幸か不幸か彼らの大半が戦場に出ないうちに戦争は終わった。同年輩で実戦を経験したのは、徴兵猶予が取り消されて学徒動員にひっかかった人々と、もう少し若い予科練志願者などであった。

 一九二八、九年(昭和三、四年)ぐらいに生まれた東京の子どもたちは、小学校で最後の修学旅行(伊勢神宮、奈良、京都などを回るので参宮旅行と言われていた)を経験している。まだ旧制度の中学校や女学校に入ってまもなく太平洋戦争に突入、五年から四年に短縮された就学期間も、最後の一、二年は勤労動員で学業は中断された。それから数年下の子どもたちは、学校に入ったのか工場に入ったのか分からない中学生生活を送った。更に一九三三、四年(昭和八、九年)ごろに生まれた人々は国民学校に学び、都会の子どもはあの悪名高い学童疎開を経験している。東京を初め大都市の空襲で親や家を失って、戦災孤児となったり、外地で残留孤児となったのは、ほとんどこの年代より下であった。一方、敗戦時に二十歳を越していた人々のほとんどは戦争に直接かかわったのであるから、それなりに戦争と敗戦によって大きな影響を蒙ったことは当然である。確かにあの時代を過ごしたすべての世代の日本人は、多くの悲惨や苦難を経験し、それなりの人生体験を経てきた。

 しかし、それが人格形成に大きな衝撃をもたらしたのは、やはり何と言っても上に挙げた昭和一桁世代であったろう。日本は神国であり、天皇は神、大東亜戦争(太平洋戦争)は、アジアを搾取し、日本をも手中に入れようとする米英勢力の野望を砕き、アジアを解放して、〈大東亜共栄圏〉を築くための止むに止まれぬ聖戦である。したがって
この戦いには神の加護があって、決して負けることはない。いざとなれば〈神風〉が吹くのである・・・・・・、こんな考えを何の疑いもなく信じていた青少年たちであった。一九四五年八月十五日は、彼らに何をもたらしただろうか。絶対と信じていたものが偽りと空虚な代物であると知ったとき、多くの若者たちは絶対なるものへの不信と同時に、自らへの不信を強く感じた。しかし挫折も大きいが復元も早いのが青年である。彼らの中のある者は、すべての絶対的なものへの不信感を捨てられず猜疑心と警戒心を保ちながら、結局は安全な小市民的生活を築いて戦後の日本に貢献してきた。

 その中でも他のある者は、二度と裏切られない真に絶対的なものを求めて模索した。そのような多くの青年が心ひかれたのはマルクス主義であった。国家的弾圧から解放された左翼思想には、殉教者的魅力と清潔な理想主義があった。この時期にクリスチャンになった青年たちの中には、一度は左翼運動にかかわった人々もあるし、マルクス主義かキリスト教かと、比較選択に迷った者は少なくなかった。戦後のキリスト教が結果的に、駐留軍の占領政策の片棒をかつぐ形になったことには問題がないわけではない。又、逆に戦勝国の権威をキリスト教が利用した点にも問題なしとはしない。しかし宣教の歴史の中で、あらゆる機会、勢力が福音伝播に利用されてきた実績は大きい。第二次大戦後数年間、日本は世界の歴史にもまれな、福音宣教の絶好の舞台であった。

 こうした一般情勢の中にあっても、当然のことながら個々の人物は、それぞれの判断に従って行動していたわけである。大衆の中に埋もれた、目にもとまらぬ小さな個人個人の行動が集められ、やがて大きな流れとなり日本全体にも流域を広げて行くことになろうとは、本人たちはもとよりだれも考えはしなかった。これらはすべて、計り知れない神の知恵の中で進められてきたとしか言いようがない。

 福音の夜明けはこうして日本に訪れたが、まだ曙のきざしも見えない戦争のただ中に、一人のクリスチャン大学生の祈りがあった。早稲田大学に学んでいた越山八郎氏(イムマヌエル中目黒教会会員、元日本酸素株式会社常務)は副主将にまでなった剣道部の退部を決意した。その理由は、試合や練習のたびに神、もちろん日本の神々にであるが、礼拝をささげなければならなかったからである。彼の母はホーリネスの熱心な信徒で、夜中に再臨があってもいいように、脱いだ着物をきちんと畳むことを息子に厳くしつけた。偶像崇拝はもってのほかだった。その彼もやがて戦争に駆り立てられるのだが、日に日に軍国化していく学園にあって、必ず多くの学生がクリスチャンになる日が来ることを信じて祈っていた。その祈りがこたえられる日が数年もせずに来ようとは、とても予想できない世相であった。