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日ごとの力 ―ルカによる福音書よりー

B6版並製 440頁 編者・西村虔
定価1,500円+税ISBN978-4-903748-08-5 C0016



聖書日課『日々の力』の読み方

 本書は、副題にもあるように、『ルカによる福音書』にもとづいて書かれたものである。『ルカによる福音書』は、ほぼ二千年前に書かれたものであり、また、日本とはまったく異なる文化と風土の中で生まれた書物である。ものの考え方は驚くほど異なり、感じ方も違う。だから、そのまま読んでも、現代の日本人にはきわめてわかりにくい面がある。その内容を理解するためには、イエスの時代や歴史などについての知識を踏まえた解説書も必要になってくる。そうした解説書や研究書は、これまでにも数多く出版されてきた。
  そうしたなかにあって、本書も、新約聖書が書かれたころの文化、風土を理解したうえで、その時代に生きたルカが、どのようにナザレのイエスを描写し、イエスの生涯と働きが理解されているかを示したものであるという点では、いわゆる解説書の一冊に加えられるものかもしれない。しかし、この本で取り上げられているのは、『ルカによる福音書』の八章四八節から一七章三六説までに限られ、全体を解説したものではない。
  本書は、聖書学者としてのみならず、イエスを「神のひとり子」であったこと、また同じイエスが「今」も語りかけるお方であることを心から納得して信じる、篤信の日本人によって書かれた。そして、本書の最大の特徴は、過去の出来事を今日のものとして読むことを試みていることである。二千年前に記された『ルカによる福音書』を、どのようにして現代に生きる人のものとして読むか、である。
  著者・西村敬一牧師は、忙しい教務の合間をぬって、月刊誌「健化」の執筆・編集にたずさわり、おりおりの聖書研究を書き記してきた。その執筆にあたり、ルカが記したことを現代に生きる人と密着させようと、並々ならない努力をしたあとがうかがえる。しかもそのために、現代の“出来事”つまり現代に固有の問題とか事件を引いて読者の理解に訴えようとする、ある意味で安易な方法はまったく用いられていない。遠い昔に書き表わされた、驚くようなイエスの救いと癒しのメッセージを、現代に生き、苦渋の中にある人にとってもっとも大切な教えとして、そのまま語りかけているのである。すなわち、「昔を今に」したのが、この本だといえる。
  「昔」のメッセージを正確にとらえ、激動期の「今」に語り、不変の福音を理解し、体験することが、本書の求めてやまない目標である。そしてこれこそが、聖書を正しく読む、もっとも基本的な態度といっても過言ではないだろう。
  ルカの生きていた世界は、そのころ台頭してきたローマ覇権の中に世界(パックス・ロマーナ)は政治的に統一され、すべての道はローマに向かい、その安定した環境の中でギリシャ文化が普及し、その言葉が古代世界の共有用語となる様相を呈するようになっていた。そのいっぽうで、イスラエル民族によって死守されてきた律法の伝統は、一神教と普遍の道徳を芽生えさせていったのである。このような神のご計画を秘めた世界史の節目の中で、「時が満ち、神の国が到来したことによって、悔い改める」必要が語られるのである。
  ルカが語るイエス・キリストは、はじめと終わりの狭間にあって、全人類におよぶ福音、すなわち神が創造の始まりの前から計画されていた救いと癒しのみわざの頂点にあって、人々を救いに連れ戻す、宇宙的目的が表わされたのである。
  現代人は「今」、そのメッセージを理解し、感知する手引きとしての書物を必要としている。
  西村敬一の描くルカの世界は、苦悩に満ちあふれ、生活苦にあえいで、魂の救いのみならず、病める心身の「癒し」を求める人々があふれていた時代である。住まいや着るもの、食べるものを求める貧しい人たち、地域社会から受け入れられない孤児(みなしご)ややもめ、寄留の人(異邦人〔ことくにのひと〕)が大勢いた。そんな時代を現代に生きる人に語りかけ、胸の奥にひそむ罪と汚れと生活苦からの解放を告げ知らせるのが本書なのである。
  本書は、西村敬一牧師の没後、教友・大沢義雄氏、西村信牧師等によって編集され、一九八五年に発行されたものがもとになっている。西村敬一牧師が残した膨大な聖書研究資料を整理するにあたり、大沢氏等は、『ルカによる福音書』解説が、現代に生きる人たちの生活の「日々の力」となることを思慮深く考えられ、編集にあたられた。そして、その編集方針に賛同し、ご協力いただいたのが千代崎秀雄牧師であった。これらの方がたの力により、ローマの支配下にあったパレスチナの地に伝えられた福音を、激動と破局の狭間に生きる現代人が読むことが可能になったのである。
  長らく絶版となっていた本書が改訂され、再編集され、ふたたび出版されることを心からうれしく思うのは編者ひとりではあるまい。

西村敬一を語る

 西村敬一を語るとき、次の文章が忘れられません。「イエスを慕うが故(ゆえ)に、凡(すべ)てを献げて伝道の途を歩む者となった喜びに、私は真実な生き甲斐を感じ、精一杯の御奉仕に努めて」まいった、というものです。
  彼のメッセージは、聖書に表現された真理を素直に受け入れて、生活に実践することでした。福音が人々の魂を動かし、行為の上にどのように現われるかということが彼の研究の主題であったのです。とくに福音書にはイエスの聖業が能力ある業、不思議と「しるし」として特色づけられていますが、これこそ西村敬一が聖書神学の鍵として考えていたものであり、この能力が人々を救い、潔め、さらに肉体をも健化するものと説いています。彼は、現代の神学は聖と愛を主軸とし、ヨーロッパ、アメリカを経て日本に伝えられたが、福音の他面は生命力の強さと健やかさを主軸とするもので、インド、中国に伝えられ・・景教(ネストリウス派)によって強調されていたと述べています。この生命力の強さと健やかさこそ西村敬一の主張する点でありました。
  さらに西村敬一は、日本キリスト教史を見つめつつ、明治初期以来、プロテスタント宣教は、伝統的な西洋思想の一部として近代合理主義とともに行なわれたため、本来、これとはまったく異質的な東洋思想として培われた日本的理解は、さらに大きな破壊を被る結果となったと述べています。そして、じかに肌で感ずる信仰、あるいは純粋経験とか行為的直観のようなもの、すなわち福音を球磨椎で受け取り、肉体に伝えて健化していく必要を力説したのでした。このような独自性のうちにはらまれる可能性に、私は捨てがたい将来的意義を見いだすのです。
  このたび、『日々の力』がい社より再刊されるにあたり、じつに霊力に満ちていた西村敬一の霊想を日ごとに読み、彼の祈りに触れるとき、福音に根ざし、東洋思想に土着したキリスト教神秘体験をもって、さらに近代文化の投ずる思想と信仰の課題に、正面から取り組むことができる喜びにあふれてきます。
編者 西村 虔